コツコツ古典

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和漢廿四孝(柳下亭種員撰・重宣画)・17 佐紀直女

この書籍は夫に先立たれた系の孝女多いですね。夫の死後も義両親に仕えただけでなく、さらに先妻の子を含め八人の子を育てた女性。

『和漢廿四孝』(東北大学附属図書館所蔵)
出典: 国書データベース,https://doi.org/10.20730/100445689

佐紀直女(さきのあたひがむすめ)

大和国佐紀の里の民 直氏(あたひうぢ)のむすめは
同郡なる 大和忌寸果安(やまと いんき はたやす)の
妻となりしに 夫 世をはやうし 節義をまもつて
舅姑につかへて 孝を尽し 
先婦の子四人 己生(わがうむ)ところの子四人 
都(すべ)て八人の子を養育なすに 更に 隔つる色なし 
義理孝行慈悲 三の道をかかざる 賢女かなと 
時の人称讃なしぬ

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老人二人に子どもが八人。どうやって生計を立ててたのかしらね。

 

和漢廿四孝(柳下亭種員撰・重宣画)・16 信濃孝子

親元を離れて戸隠山で勉学に勤しんでいた少年。家に呼び返されて読まされた手紙は継母とその浮気相手との艶書。少年は機転をきかせて当たり障りのない文章として読みました。これも親孝行?

『和漢廿四孝』(東北大学附属図書館所蔵)
出典: 国書データベース,https://doi.org/10.20730/100445689

信濃孝子(しなののかうし)

信州の住人何某とかやいへる人 男子を儲け 其妻世を去りければ 
都より後妻をむかへたりしに 此妻兼てかたらひし男ありて 
折々都より文を通はせけるを夫聞しり 密に其の文を
さがし求め 我身は物を得書かざりければ 戸隠山へ手習に
のぼせおきたる我子を呼寄(よびよせ)
此文を読するに かの児(ちご)継母の罪を救はんと 
ことなきものに読みなし 父が恚?(いかり)を とどめければ 
母其志に恥入 夫(それ)より行(おこなひ)を改めぬとなん

母 児によみておくりし歌  
〇しなのなる 木曽路にかけし 丸木橋 ふみみしときは あやふかりしを
児かへし 
〇しなのなる そのはらにしも 宿らねど みなははきぎと おもふばかりぞ

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父親は無学、母親は浮気者。自分はしっかり勉強して貞淑な奥さんを貰おう、と思ったことでしょう。

和漢廿四孝(柳下亭種員撰・重宣画)・15 伴直家主

家の中に亡くなった両親の木像を据えて毎日敬ったという人。中国の二十四孝の一人、丁蘭と似てます。

『和漢廿四孝』(東北大学附属図書館所蔵)
出典: 国書データベース,https://doi.org/10.20730/100445689

伴直家主(とものあたひやかぬし)

安房国安房郡の農民なり 至孝たぐひなく 父母 終りてのち 
口に 美味をくらはず あらきものを着て 歎きくらし 
ふた親の木像をつくらせ 朝夕食事をそなへ 
敬礼をなす事在世(よにありし)日につねたがはず 
この事 竟に内裏にきこえ 位を給はり 永く年貢をゆるさせたまひぬ

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日本の二十四孝の孝子は年貢を免除される人が多いですね。

和漢廿四孝(柳下亭種員撰・重宣画)・14 橘氏妙仲

伊豆へ流された父のあとを追い、父の死後も墓のそばで暮らし、やがて汚名を雪いだ孝行娘。

『和漢廿四孝』(東北大学附属図書館所蔵)
出典: 国書データベース,https://doi.org/10.20730/100445689

橘氏妙仲(たちばなうぢのめうちう)

橘速成(たちばな の はやなり・逸勢)が女(むすめ)なり 
其父罪をえて伊豆国へ流さる
女(むすめ)別れをかなしみ 共にゆかんとせしかば 
警固の武士 是を許さず 
かかりしかば 止(とどま)る体にもてなし 
昼は遅れ 夜はおひつきぬ
逸成 遠江の駅にて疾病て死す 
むすめ あこがれ嘆き 骸を葬り
身は尼となり 妙仲と名を更め 墓のかたはらに庵して 
おこなひすますこと十余年
竟(つひ)に叡聞に達し 死たる父に正五位下を給はり 
罪名を免かるることをえたり 
妙仲よろこび 死骨を都にたづさへ登り
多年の志をとげけるとぞ

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籠に入れられ伊豆へ流されていく父親を追う妙仲。父親の橘逸勢は途中で病死。そして怨霊となり、のちに御霊神社で祀られるのでした。妙仲の供養も届かないほど逸勢の恨みは強かったんでしょうか。

和漢廿四孝(柳下亭種員撰・重宣画)・13 随身公助

群衆の前で親にぶたれる公助。このバカ息子!なんで的を外すの!えいっ、えいっ。

『和漢廿四孝』(東北大学附属図書館所蔵)
出典: 国書データベース,https://doi.org/10.20730/100445689

随身公助(ずいじんきんすけ)

東三條太政大臣の御鷹飼 武則の息なり 
右近の馬場の賭弓を射そんじたりとて
はれがましき所にてさんざんに武則我子を打擲なすに
公助いささかもうごかず うたれけり 
後人々などて逃げ給はざりしと尋ねければ 
こたへていふやう
われ走りなば父おはんとして あやまつて
つまづきたほれなどし給はんとおもひ 
さはせざりしとぞ云ひける 
実に勝れたる孝心なり

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公助さんはプレッシャーに弱いタイプだったのかしら。晴れ舞台で息子が勝者になるところを見たかったんでしょうねー、お父さんはね。

和漢廿四孝(柳下亭種員撰・重宣画)・12 難波部安良賣

7・波自采女さんと似たような境遇の人。

『和漢廿四孝』(東北大学附属図書館所蔵)
出典: 国書データベース,https://doi.org/10.20730/100445689

難波部安良賣(なにはべのやすらめ)

筑前の人にて 幼稚(いとけなき)より きはめて父母に孝順なり 
その母はやく世をさりければ 深くかなしみ歎き 
旦暮 (土偏に夌?)墓にまうでつかふること 生る日のごとし 
かくて十六才にして同国の住人
宗像の朝臣秋足(あきたる)の婦(つま)となる 
不幸にして いく程もあらで秋足に
おくれしかば さまざまいひよる人あれども 二夫にまみえず 
天長の帝きこしめして 位二級を賜り 
貢ものをゆるさせ給ひぬ

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「言い寄る人がたくさんいたけど全部断った」というところがさりげなく大事なんでしょうね。美人は得ね。

和漢廿四孝(柳下亭種員撰・重宣画)・11 大江挙周

赤染右衛門と大江挙周親子のエピソード。挙周が病に倒れたとき、母親の赤染右衛門は住吉大社に病気平癒祈願の和歌を奉納。住吉の神様が歌を気に入ってくれたのか、目出度く挙周は病気が治りました。

住吉大社は航海の神様、また和歌の神様としても有名ですからね。鳥居、太鼓橋、沖に帆掛け船は住吉大社の絵のマストアイテム。

『和漢廿四孝』(東北大学附属図書館所蔵)
出典: 国書データベース,https://doi.org/10.20730/100445689

大江挙周(おおえたかちか)

大江匡衡が子 母は赤染右衛門なり 
挙周病ひあやふき時 母思ひにたへかね 住吉へ詣で
我が子の命にかはらんと祈誓して 
かはらんと 祈る命は おしからで さてもわかれん 事のかなしき
と詠じて奉りければ 挙周が病ひ たちまち いえ 
其母煩ふ事甚だし 挙周 此よしを聞き
大いにおどろき いそぎ住吉に社参して 
再 わが命をたち 母を助け給へと 身をこらしていのりければ
神明あはれみ給ふにこそ 母子とも つつがなき事をえたりけれ

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挙周の病気は治ったものの、その後赤染右衛門が病気になりました。挿絵の赤染衛門は額に手を当ててます。熱が出て具合悪い様子なのかな。挙周が必死に祈ったら赤染右衛門も快復しました。挙周は和歌を奉納したのかどうか。下手な歌だったら神の怒りを買って悪化しちゃいそう。