平治の乱で父の義朝が敗れ、朝長も一緒に逃げていたものの、彼は父親の足手まといになることを恐れました。
「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」より
源朝長(みなもとのともなか)
源の朝長は義朝第二の子なり 二條院の時平治の役にあふて
義朝軍利あらす 時に朝長 歳甫て十六 父義朝と
共に奔て洛北の八瀬の邑に過る 其矢に傷らるるを以て
冑を脱 河に投去る 俗其所を冑の渕といふ
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朝長は父親に自分を殺すように懇願し、義朝はその意思を受け入れました。義朝も身を寄せた長田父子にその後間もなく裏切られ討たれてしまいますが・・・。