コツコツ古典

間違いがあったらコメント下さい。

孔子事跡圖觧(上)・13 為宰中都

ついに孔子の出世が始まります。

孔子事跡圖觧』(国文学研究資料館所蔵) 出典: 国書データベースより

孔子御年五十一の時 魯の定公
孔子を中都宰(ちうとのさい)となし給しに
中都よく治(おさまり)たれは
一年程のうち
に四方みなその法に
したかひたり 
それより
司空(しくう/土木を司る)になり
大司寇(たいしこう/司法の長官)にならせ給ふ

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孔子が中都宰(中都という町の町長)になったところ、一年で周辺の町がみな孔子の治め方を見習ったとのこと。そして次第に孔子は定公から重要なポストに据えられていきました。上巻まもなく終わりますが、すでに孔子51歳。中巻と下巻はどう展開していくのでしょう。

孔子事跡圖觧(上)・12 退脩詩書

孔子は魯の国に帰ってきました。当時国政が乱れていたため、孔子は官職にはつかず私立学校を創設して子弟を教育しました。孔子はこの頃40歳前後。

孔子事跡圖觧』(国文学研究資料館所蔵) 出典: 国書データベースより

魯の定公(ていこう)立れし後 季氏(きし) 公室を僭(せん)して陪臣 国の政を執(とり)
正道をはなれたり ゆへに 孔子(つかへ)させ給はす 退て詩書を脩(おさめ) 楽
を正し 礼を定(さため)たまひて弟子彌(いよいよ)(おほし) 遠方より来(きたり)て業(きやう)
(うけ)しとなり

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孔子は詩・書(詩経書経)などの古代の文献や、礼・楽(礼儀・音楽)を研究・整理・教えた、とのこと。学校といっても生徒は鬚の生えた男性が多いですね。今でいう政経塾みたいな感じかな?

孔子事跡圖觧(上)・11 晏嬰阻封

齊国の君主の景公(けいこう)に孔子は重用してもらえそうだったのに、景公の家臣の晏嬰(あんゑい)が反対しました。そして景公も家臣達の反対を押し切ることは出来ませんでした。やむなく孔子一行は魯に帰ることにし、齊をあとにしました。

孔子事跡圖觧』(国文学研究資料館所蔵) 出典: 国書データベースより

齊の景公(けいこう)おりおり政を孔子に問(とは)れし時 君臣父子の事をのたまひ
政は財用をよきほとになす事なとをとき給けれは 景公悦給て
尼谿(じけい)と云ふ所をもて封せんとせられしを 晏嬰(あんゑい)進出て ととめ
しに その後も齊の大夫等孔子を害せんとせり 景公も吾老(おひ)
たり 用(もちゆる)ことあたはしとありけるゆへ 孔子遂に魯に反(かへり)給ふ

「晏嬰のバカバカ」ってみんなで悪口言いながら帰ったのかなー。

孔子事跡圖觧(上)・10 在斉聞韶

昨日に引き続き、今日も音楽好きな孔子のエピソード。

孔子事跡圖觧』(国文学研究資料館所蔵) 出典: 国書データベース

魯乱て孔子(せい)の国に適(ゆき)給 景公(けいこう)に通(つう)する事もあらんやと高昭
子か家臣となり給し此 太師と楽の事を語(かたり)給 韶音(しやういん)を聞(きき)
(ならひ)て 三月ほとも肉の味(あちはひ)を覚(おほへ)させ給す 齊にて楽をなす
こと かほとまてに至(いたら)んとは 図(はから)さりしとのたまひしを
齊人いひあへり
三月を音の一字に作ともあり これを学こと三月ともあり
聞とは学こころなりとも云へり

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孔子世家」の該当部分です。

沢田総清, 竜沢良芳 編『新撰史記鈔詳解』,健文社,昭和11. 国立国会図書館デジタルコレクションより

其後しばらく経過して魯国が乱れた。孔子は齊に行き高昭子の家臣となりて
齊景公(けいこう)に親しく接せんとした、齊の音楽の長官と音楽の話をした。

韶の音楽を聴いて之を喜んで学んだ三ケ月間も肉の味の旨いのも知らない程に
熱心に学習した。齊人は其の古道を喜ぶことの深いのを称歎した。

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音楽の勉強に夢中で三か月間、肉の美味しさもわかんなくなっちゃったそうです。美味しいもの食べてても頭の中は音楽でいっぱいだったんですね。

「韶」というのはその昔、二十四孝の一人、舜帝が作った音楽なのだとか。

御伽草子 第13冊 (二十四孝) 国立国会図書館デジタルコレクションより

 

孔子事跡圖觧(上)・9 学琴師襄

孔子が音楽好き、というのは聞いたことありましたがここまでとは。

孔子事跡圖觧』(国文学研究資料館所蔵) 出典: 国書データベース

孔子 琴(きん)を
師襄(ししやう)に学(まなひ)
給ふに十日にあま
れとも進(すすみ)給はす 師
襄も益(ます)へしといへは
いまたその数(すう)を得すとのたまへり
間(しはらく)ありて いまた其志を得す 又間ありて いまたその人と
なりを得すとのたまひしに 間ありて 文王にあらすんは
誰かこれをなさんとのたまひけれは 師襄席を避けて再拝
し いかにも文王操と申なりと云へり

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孔子世家」の該当部分です。

沢田総清, 竜沢良芳 編『新撰史記鈔詳解』,健文社,昭和11. 国立国会図書館デジタルコレクション より

上段の頭書に通釈が書かれているのでテキストに起こしてみます。

【通釈】
孔子は楽師の襄子に就いて弾琴の法を学んだ。十日にして未だ他の曲に進まない
襄子が言ふには もう他の曲に移つて学んで宜いと。
孔子の言はるるには、私は既に其の曲譜は習つたが、未だ其の数理を
解する事が出来ないのですと 

しばらくして襄子が言ふのには、すでに其の数理は分つたのだから、更に
他の曲に移るのが宜からうと。
孔子の言はるるには私は未だ其曲中の志す所を解する事が出来ないと。

しばらくして襄子が言ふのには、子は既に其の曲中の志す所を習つたのである、
他の曲に移った方が宜からうと。
孔子の言はるるには、私は未だ其曲中の人物を解することが出来ないと。

しばらくして襄子が言ふにはお前は穆然(ぼくぜん)として静にして深く
思つて居るやうであり、恰然として楽しみ、高く望み、遠く志す所あるやうである、
必ず其の曲中の人物を解し得たのであらう。
孔子の言はるるには、余は其の曲中の人物が分つたのです、其の人は顔色黒く、
身長は高く眼は遠く見るやうで、心は四方の万国に君臨するやうである、
文王でなくては、此の曲を作るものはあらうやと、襄子は敬服して席を避けてから
再拝して言ふには、私の師匠も此の曲を伝へて周の文王の作曲であるといつたのですと。

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琴のお師匠さんは孔子が練習して上達するので「次の曲に進みましょう」と伝えますが
孔子は「まだまだ」と言ってさらに高みを目指し続けます。
ついには作曲家が誰かまで透視?で見抜いてしまいました。「この曲を作ったのは文王以外にありえない」と。お師匠さんも仰天~。

孔子事跡圖觧(上)・8 問礼老聃

孔子が弟子の南宮敬叔さんたちを連れて魯国から周へ行って、老聃(ろうたん=老子)から礼について学んでいる図ですね。

孔子事跡圖觧』(国文学研究資料館所蔵) 出典: 国書データベース

孔子 
南宮敬叔(なんきうけいしく)とともに
周にゆきて
礼を老子に問はせ給ふ
周より反(かへり)給ひて
弟子(ていし)ますます 進(すすむ)となり

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史記」の中の、「孔子世家(こうしせいか)」のこの部分あたりの話ですね。

『漢文叢書』第12〔3〕,有朋堂,昭和2. 国立国会図書館デジタルコレクション 史記/孔子世家」から抜粋。

赤線の中で「一乗車、両馬、一豎子」というのは「一台の車、二頭の馬、一人の従者」だそうです。(参考:「孔子清水書院

孔子事跡圖觧(上)・7 命名栄貺(めいめいえいきょう)

孔子は結婚し、父親になりました。昭公から鯉が届きました。使者が鯉を二匹お皿に乗せて孔子に渡す場面ですね。

孔子事跡圖觧』(国文学研究資料館所蔵) 出典: 国書データベース

孔子 宋の幵(けん)官氏に娶(めとり)給て 翌年御子を設(まふけ)らるる時 魯の
昭公 鯉を孔子に賜(たまはる)ゆへ 君の貺(たまもの)を栄なりとせられて名
を鯉(り)と付(つけ)させ給 字(あさな)は伯魚(はくきょ)といふ 年五十になりて
孔子に先(さきたち)て卒す その子 名は伋(きふ)字は子思(しし) 中庸を作(つくる)

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君主から出産祝いに鯉(こい)をいただいたので、孔子はこどもの名前を「鯉(り)」にしました。鯉さんは50歳の時、父親の孔子(当時70歳頃)より先に亡くなりました。鯉さんの子は子思で、「中庸」の著者と言われています。

 

我が子に先立たれるのは何歳であったとしてもつらいことですね。孔子は三歳で父親と死に別れ、24歳のときに母親もこの世を去りました。ちなみに鯉さんの母である奥さんとは離婚したようです。(参考:「孔子画伝」加地伸行