和漢廿四孝(柳下亭種員撰・重宣画)・24 後三条院 (完)
日本の二十四孝はこれでラストになります。父君の治世が長く続くように北斗七星に祈っている後三条院。御朱雀天皇の第二皇子です。
『和漢廿四孝』(東北大学附属図書館所蔵)
出典: 国書データベース,https://doi.org/10.20730/100445689
後三条院(ごさんでうのいん)
此帝いまだ太子にてましますころ 深く北斗を信じ給ふ
祈の師 成尊僧都といへる人
常に御祈祷のため 参内ありけるが
或時何故に かく北斗をいのり給ふにやと 問奉りしに
きこしめされ 我父君の在位を千代万代とおもふところに
ややもすれば 我即位のことをいそがせ給ふゆゑ
其御心の出玉はぬ為になすとぞおほせありけり
かかる御孝心なれば
御即位の後も天下久しく治りけり めでたしめでたし
ーーー
このあと中国の二十四孝に続きます。続きは「二十四孝に会いに行く!」に書きます。
和漢廿四孝(柳下亭種員撰・重宣画)・23 楠正行
御簾の向こうに座ってらっしゃるお方が帝(後村上天皇)ね。ご尊顔は見えません。
『和漢廿四孝』(東北大学附属図書館所蔵)
出典: 国書データベース,https://doi.org/10.20730/100445689
楠正行(くすのきまさつら)
帯刀正行は 父正成 湊川に討死の後 その遺言をまもり
南朝の帝に仕へ奉り 忠戦数ヶ度におよびしかば
君 叡感あつて 弁内侍とてきこゆる美人を
宿の妻に賜らんとありければ
勅答の歌一首を奉りぬ
〇とても世に ながらふべくも あらぬ身の
かりのちぎりを いかでむすばん
南朝の美運をとくにさつし 君恩にいのちをすてんと
思ひきはめしものなり
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正行と弁内侍は戦いのない時代と場所に生まれ変わって幸せな家庭を築いてることでしょう。
和漢廿四孝(柳下亭種員撰・重宣画)・22 薩摩福依賣
玄関先に来た押し売りかと思いました。サザエさんの漫画にはよく登場してましたよね。玄関先に座り込んで「ゴム紐買ってくれよ」とか言う強面の。今は勝手に家の中に入ったら不法侵入になりますね。
『和漢廿四孝』(東北大学附属図書館所蔵)
出典: 国書データベース,https://doi.org/10.20730/100445689
薩摩福依賣(さつまのふくよめ)
福依賣は薩摩国なる賤しき民の女(むすめ)なり
もとより家まづしく その父母ことにおとろへ
常に病(やむ)事おほければ これをいたく歎き
里人に雇はれ 身を苦(くるし)めて わづかのあたへをえ
薬を求め 或ひはその好むものをととのへまゐらするなど
尊教ことばに及ばず
かくなす事二十餘年 仁寿の帝の天聴にたつし
位三級を給はり 門にしるしを建て家富さかへけり
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病気の親のため、身を粉にして働いて薬を手に入れた親孝行な娘でした。押し売りだなんて勘違いしてごめんなさい。
和漢廿四孝(柳下亭種員撰・重宣画)・21 北条泰時
父の死後、自分よりも兄弟に有利になるように所領を分けた北条泰時。
『和漢廿四孝』(東北大学附属図書館所蔵)
出典: 国書データベース,https://doi.org/10.20730/100445689
北條泰時(ほうでうやすとき)
北條義時の長男にて鎌倉三代の執権たり
義時存生のうち 泰時にまさりて寵愛ふかき子多くありければ
其死後 泰時 所領を我弟妹におほく分あたへ
其身は少し請(うけ)けるを
尼将軍きき給ひ おどろきて
改(あらため)正しく分与へんと沙汰あるを
泰時深くとどめ申
彼等をおろそかになすは父の心ざしにあらずと
強て 初めのごとく分け与へけり
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和漢廿四孝(柳下亭種員撰・重宣画)・20 竹内邑今女
中国の二十四孝の王祥を思い出します。王祥は真冬に裸で氷の上に寝そべって鯉を捕まえましたが、日本版二十四孝は過激なお話少ないですね。今女さんが小川で洗い物してたら鯉が桶に飛び込んできました。
『和漢廿四孝』(東北大学附属図書館所蔵)
出典: 国書データベース,https://doi.org/10.20730/100445689
竹内邑今女(たけのうちむらのいまぢよ)
大和国竹内村の農民何某が女(むすめ) 今女といへるは
早くより母にわかれ 一人の父をかぎりなく大切になしけるが
家きはめて貧く よろづ思ふに任せね共
其父がのぞむものは 心をつくして これをととのへ与ふるに
或時鯉を食せんことをいふ
此辺に大いなる流もあらず 求んとするに あたへなければ
何とせんと 案わづらひつつ 前の小川へ家具を洗ひに出でけるに
不思議やたづさへゆきし桶の内へ 尺にあまる鯉をどり入けり
今女大きによろこび父にすすめぬ
これ天より 孝女へ玉はりしものなるべし
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天のご褒美は現物支給。わかりやすくていいですね。
和漢廿四孝(柳下亭種員撰・重宣画)・19 農民甚助
絵を見ると、奥さんに働かせて自分はのほほんと過ごすダメ夫の話かと思いましたが、文を読んだら全然違いました。怠け者のお兄さんたち二人と違い、働き者で親孝行、夫婦仲も円満でご褒美貰った人でした。甚助の後ろの家の中には母親の姿。お母さんは実直な三男の甚助さんちで暮らしているわけですね。甚助さんは岡山県浅口市の人だそうです。
『和漢廿四孝』(東北大学附属図書館所蔵)
出典: 国書データベース,https://doi.org/10.20730/100445689
農民甚助(のうみんぢんすけ)
備中国浅口郡柴木村の産
兄弟三人ありて 甚助は末子也
父没する時 三人に田地をわかち与へしが
二人の兄は耕作に怠り 不作のみ打つづくゆゑ
甚助に田地を取かへよといふに
聊(いささか)もいなまず 申むねに任せぬ
かくすれども 只我田地のみ ますます実入よく
一郷洪水のために田畑を流すに
甚助が田地は うれひなかりけり
其婦(つま)も又夫とともに母につかへて孝心あつく
国司よりおほくの褒美をたまはりぬ
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ちょっとお話がよくわからなかったので、別の本も見てみました。
『和国二十四孝絵抄』(東京学芸大学附属図書館所蔵)
出典: 国書データベース,https://doi.org/10.20730/100409587
百姓甚助
備中の国浅口郡柴木村の百性子三人に田地三ツに分てゆづりしに
兄二人は耕作におこたりがち
年々みしん(未進・・・年貢を納めないこと)せしかど
弟甚助は正直に出精せしゆへ みしんの事もなく母もこれが方に
心よくやしなひ嫁が孝行なること又たぐひなく
あるとき二人の兄かいはく 親ながら依怙あり
汝にはよき田地をゆづり 我々にはあしき所をあたへしゆへ
とかくみしんがちなり よりて汝が田地ととりかへんとあれば
甚助はいぎなくとりかへつかはし恨むることもなく
あれし田地をたんせいして作りければ
すこしもみしんのうれいなく
兄はまたまたみしんつのり とがめにぞあひける
此こと甚助なげきて つくのひければ 庄やもふびんにおもひ
兄どもをゆるしける
そののち秋なが雨して洪水あり
田地あまたながれ村々なげくところに 甚助が田地はすこしも
いたむことなく いつもより出来よかりければ
代官これただ事にあらずと国司へ申上ければ
さつそく甚助をめされける
その夜夜甚助がゆめに出家四五人 月をおがみゐるうしろに
はかまの人あまたにて きやうおふのていに見へしが
よくてう岡山よりよびだしにあひ
出行けるが ゆめのとほりにすこしもたがはず
国司にはただいま孝心のものよびいだすなり
客僧たちも見給へとてかの甚助をめしいだし孝ていをつくせしこと
御しようびの上御ほうびとして田地あまたたまはりしとぞ
ーーー
(あらすじ)甚助さんは三兄弟の末の弟です。死んだ父親の田地を兄弟三人で分けました。怠け者のお兄さんたちは農作業を怠けて年貢を未納して、あげく弟に「母親がエコひいきしてお前に良い土地を分けたから俺たちは不作になった。お前の土地と俺たちの土地を交換しろ」と因縁をつけて、田地を交換しました。その後も弟の甚助さんは真面目に耕作したのできちんと年貢を納めることができましたが、兄さんたちはやっぱり怠けたのでまたまた年貢を払えずにお咎めを受けました。それも甚助さんが償おうとしましたが、庄屋さんが不憫に思ってお兄さんたちを許してくれました。その後、秋の長雨で洪水が起きても甚助さんの田畑は無事、かえって例年より豊作でした。これがお代官さんの耳に入りました。その頃甚助さんは夢を見ました。お坊さん4~5人と袴姿の大勢の人たちに囲まれて饗応を受ける夢です。まさにその夢の通り、国司から呼び出されご褒美をたくさん貰いました。
和漢廿四孝(柳下亭種員撰・重宣画)・18 小松内大臣重盛
平清盛の嫡子重盛。権勢ほしいままの父親清盛に唯一意見を言えた人。残念ながら40代で病に倒れてしまいます。
『和漢廿四孝』(東北大学附属図書館所蔵)
出典: 国書データベース,https://doi.org/10.20730/100445689
小松内大臣重盛(こまつないだいじん しげもり)
重盛は平清盛公の嫡子なり
父相国 君を蔑(ないがしろ)になし 民をくるしめ
万(よろづ)ほしいままの行なひのみ つのりしかば
深く悲しみ 神明仏陀にちかひ
聖賢の道をもつてさまざま是を諫め
我命おはるの夕までも 父を
善道みちびかんと心をくだき給ひけり
さるによつて内府が存生には
平家の傾くべきさまはなかりけり
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「内府が存生には平家の傾くべきさまはなかりけり」。重盛が長命だったら栄枯盛衰の代名詞のような「平家物語」という作品は書かれてなかったわね。