コツコツ古典

間違いがあったらコメント下さい。

絵本和漢誉・17 小栗判官氏重

小栗判官。器用な芸を見せています。

「和漢絵本誉」国文学研究資料館所蔵 クリエイティブ・コモンズ 表示 4.0 ライセンス CC BY-SA

小栗判官氏重(をぐりはんくわん うぢしげ)

(馬の名前)

「かげ」の字、こんな字初めて見ました。名馬「おにかげ」は「鬼鹿毛」と表記する方が一般的のようです。


(右下)
馬術鍛錬の事は世にしることなれば
ここにいわず

 

(左下)

是は馬の骨格四足をよするの象のみにして
画くところは世(俗?)もて遊ふ説経の文による物也
実録とは異なり 委しくせんとならは 鎌くら大双紙(鎌倉大草紙)
又東鑑本にたしかなるべし

ーーー

藤沢市遊行寺博物館発行の「遊行寺おぐり」の中の「小栗判官の図」、画家は松本楓湖(1840-1923)。

北斎の絵とほとんど一緒。これは模写なのかしら。碁盤の向きは違うのね。斜めってるわね。小栗の顎の引き方や手綱を引き締める左手首の角度など、北斎のほうが強い力が入っているのを感じます。

 

絵本和漢誉・16 呉王孫賢

大きな亀を捕まえて、吊るし切りにしてるんでしょうか。

「和漢絵本誉」国文学研究資料館所蔵 クリエイティブ・コモンズ 表示 4.0 ライセンス CC BY-SA

呉王孫賢(ごわう そんけん)
呉王孫賢好んで亀の肉を食す
三千年を歴たる大亀を献す 
斬れどもきれず
焼どもやけず

ーーー

ふさふさの尻尾。霊亀っていうんですか、これ絶対食べちゃだめな亀でしょ。

絵本和漢誉・15 仁田四郎

猪の背中に乗ったり、富士の人穴に入ったりした人ね。

「和漢絵本誉」国文学研究資料館所蔵 クリエイティブ・コモンズ 表示 4.0 ライセンス CC BY-SA

仁田の四郎忠常(にたんのしろう ただつね)
富士の巌窟に入る

ーーー

静岡県田方郡函南かんなみ)町にあった温泉の案内。

菊池芳園 著『伊豆温泉案内』国立国会図書館デジタルコレクション より

伊豆畑毛温泉場 松屋旅館 電話大場二十番


名所古蹟
当温泉場の附近には大仙山、柏谷百穴、北條宗時墓、鸚鵡石、
文学(文覚?)上人遺跡、仁田忠常墓、畑毛公園等著名の名所古蹟多し。

温泉特効
弊館の内湯は胃及腸加答兒(カタル)、腫物皮膚病、筋肉関節、
レウマチス、ヒステリー、脊髄勞、婦人生殖器の慢性諸病、
線病等に特効あり。

ーーー

「鸚鵡石」は「函南のこだま石」の別名だそうです。

亡くなった母を偲んで、母との思い出深い巨石に向かって息子が母を呼ぶと、石の奥から子を呼ぶ声が聞こえてきたと・・・。それって「こだま」じゃなくない?ホラーよね?

柏谷百穴の画像はこちら。

伊豆も熱海、修善寺、長岡、湯河原その他たくさん温泉場ありますよね。いずれ畑毛温泉も行って、仁田忠常のお墓参りもしてこようと思います。

絵本和漢誉・14 子路

二十四孝の一人、子路(仲由)。

「和漢絵本誉」国文学研究資料館所蔵 クリエイティブ・コモンズ 表示 4.0 ライセンス CC BY-SA

子路(しろ)

君子は死すともその冠をせずといゑるとかや
子路衛に死す

敵に冠の紐を切られた仲由。「君子は死ぬ時も冠を脱がない」と宣言し、紐を結び直したのちに討死しました。赤丸の中に紐が見えます。

 

国訳漢文大成 経子史部 第15巻 4版 仲尼弟子列伝第七  国立国会図書館デジタルコレクションより

絵本和漢誉・13 真田与市

崖下に投げられた石、投げ返したんかーい。

「和漢絵本誉」国文学研究資料館所蔵 クリエイティブ・コモンズ 表示 4.0 ライセンス CC BY-SA

真田の与市
大石を投かへして股野をこらす(懲らす)
真田の与市義貞勇力

ーーー

五郎と与市の石投げ合戦、幸若舞「夜討曽我」の一場面だそうですね。五郎が投げた石を受け止めて投げ返した与市の勝ち。五郎は与市の投げた石を受け止めたものの、投げ返せなかったようです。

幸若舞曲集 本文」国立国会図書館デジタルコレクションより

鹿狩りを終えて頼朝が中心の酒宴の席で、座敷の中に五尺ほどの大きな石がありました。本間さんという若者が邪魔だからどけようとして持ち上げたものの、力不足で投げ捨てられず、もとの位置に戻しました。

そこへ怪力俣野五郎が俺の出番とばかりに登場、石を宙に持ち上げ、「はるか東」に投げようと構えたところ、「はるか東」に何も知らない真田与市が馬に乗ってしずしずと通りかかりました。

そこで俣野が

俣「真田くん、この石投げたら取れるかな~?」

真「アホか」

俣「取れないのー?」

真田は馬から下り、「受け止めるから二個でも三個でも投げて見ろよ」

俣「えいっ」

真「取ったよ!返すぜ」

俣「うげっ」

俣野はなんとか石を受け止めたものの、力が落ちていたのか、石を投げ捨てました。真田にもう一度投げ返すことはできなかったんですね。

こういう流れですね。

周囲の人に「真田のほうが俣野より十倍力が強いね!」と笑われてしまった俣野は、今度はその場にいた人に「やかましいわ。お前ら相撲で勝負しろ」とふっかけて酒宴をさらに混乱させました。厄介な男だわ。

絵本和漢誉・12 股野の五郎景久

怪力の股野五郎が大石を投げたシーン。大石は描かない。腰を屈めて崖を見下ろす男性の視線で石の重さや大きさを感じますね。

「和漢絵本誉」国文学研究資料館所蔵 クリエイティブ・コモンズ 表示 4.0 ライセンス CC BY-SA

股野の五郎景久

大石を投けて力量に誇る

ーーー

敵と組み合って崖を転がり落ちていった人ですよね。体力どんだけ~。

絵本和漢誉・11 清原の真人家衡

清原マサトさんと家衡さんが戦ったのかと勘違いしました。「真人(まひと)」というのは「朝臣」とか「宿禰」「臣」「連」みたいな、姓(かばね)なんですね。

「和漢絵本誉」国文学研究資料館所蔵 クリエイティブ・コモンズ 表示 4.0 ライセンス CC BY-SA

清原の真人(まつと)家衡憤戦

ーーー

絵の中の読み仮名は「まひと」ではなく「まつと」になってます。

 

家衡さんのことはよく知らないので「大日本人名辞書(明33)」を見てみました。

国立国会図書館デジタルコレクションより

キヨハラ イへヒラ

清原家衡は武則の次子なり 義家征夷大将軍を以て奥羽を征す

家衡拒みて容れず 対戦持久寛治五年義家義光と其の城を囲む

糧尽きて陥ゐる 五月斬に処す(大日本史

ーーー

家衡さん、最後は斬られてしまったんですね。一方左隣の項のキヨハラキヨヒラ(清原清衡)さんは中尊寺を造営したりして奥州藤原氏の基礎を築いたお方。後三年の役で対立した二人、明暗が並んでいるように見えます。最初は清衡さんと家衡さん、団結してたのに、あとから敵対するようになったのね。